「どうして原口さんは、琴音先生がこの近くにお住まいだってこと知ってたんですか? 私だって知らなかったのに。しかも彼はあなたの担当じゃないのに! どうして!?」 言っているうちに、だんだん頭に血が昇ってくるのが分かる。――落ち着け、私(あたし)!「それだけじゃないんです。あなたが彼を呼ぶ時の呼び方もずっと引っかかってたし、どっちも二年前から恋人がいないっていうのも偶然が重なりすぎてる気がして」『――、分かった! 認めるわ。あたしと原口クンはね、二年前まで付き合ってたの。ちょうどナミちゃんがデビューするくらいの頃までね』「……!? ウソでしょ……」 〝ああ、やっぱり〟と納得するには、その事実はあまりにも衝撃的すぎた。特に、後半部分がグサッと胸に突き刺さった。『ずっと黙っててゴメンね。話したら、ナミちゃんに嫌われるんじゃないかと思って、話す勇気がなかったの』「話してくれなかった方がショックですよ。私、琴音先生のこと信じてたのに」 こんなに大事なことを打ち明けてもらえなかったなんて、裏切られたような気分だ。「でも、私のデビューが決まったのと同時期に別れたのって偶然なんですか?」 私が一番引っかかっているのはそこだ。『う~ん……、結論から言えば偶然じゃないのよ。あたし達の別れに、ナミちゃんは間接的に関わってる。残酷(
『――うん、いいけど……。長くなるよ? それでもいい?』「大丈夫です。話して下さい。……あ、ちょっと待って!」 スピーカーにしておいてよかった。私はキッチンから麦茶を淹れたグラスを持ってくると、再びスマホの前に座る。「――はい、お待たせしました。どうぞ」『うん。――あたし達は、あたしからのアプローチで付き合い始めたの。もしかしたら原口クンがあたしに合わせてくれてたのかもしれないけど、あたし達はうまくいってた』「はい」 私は麦茶に口をつけてから相槌を打った。『そんなあたし達の関係が変わったのは、ナミちゃんのデビューが決まってすぐの頃だった。それまでは女性作家さんの担当についたことのなかった彼が、自分からナミちゃんの担当になるって希望したの。不思議に思ったあたしが「どうして?」って訊いたら……』「はい」 * * * * ――琴音先生の話をまとめるとこうだ。 その日、たまたま次回作の打ち合わせで編集部を訪れていた彼女に、原口さんが私の大賞受賞作の生原稿を読むように勧めた。彼女はためらったけれど、「ゲラ版はもう校閲に回ってますから」と言われ、それならと読んでみた。 その頃すでに、彼は私のその小説に惚(ほ)れ込んでいたらしいから、この行動は彼女に引導(いんどう)を渡すつもりの行動だったのかもしれない。 彼女は原稿をベタ褒めし、原口さんから女子大生が書いたのだと聞かされてビックリ。 そして彼女は、彼が私の担当になりたい理由を熱く語られて、彼の中にある私への何かを感じ取った。それが何なのかは私にはまだ分からないけれど、おそらく編集者としての感情以上の何かだったんだと思う。「自分がこれ以上縛(しば)りつけていたら、彼を苦しめてしまう」――。原口さんが器用な人間じゃないことを理解(わか)っていた琴音先生は、自(みずか)ら身を引くことで彼に仕事に専念してもらうことにした。――「恋愛か仕事か」という選択を迫ることなく、彼に仕事を選ばせたのだった。 私が間接的に関わっているっていうのはそういうことだったのだ。そうして二人は恋愛関係に終(しゅう)止(し)符(ふ)を打ったのだという――。 * * * * ――私はしばらく言葉を失った。 同じ〝別れ〟でも、私と潤の時とはまるで違う。相手のことを想って身を引くなんて、大人じゃないとできない。私にはきっ
「――ねえ、琴音先生。四月に私が『原口さんのこと好きみたいだ』って相談した時、どう思ったんですか?」 彼女にもし、今でも原口さんへの未練があったとしたら……? 私はあの時、すごく無神経なことをしてしまったのかもしれない。『う~ん……。ちょっと複雑な気持ちではあったけど、あたしにとってナミちゃんは大事な友人だし。本気で好きなら応援したいと思ったよ』 琴音先生は心の広い人だ。自分の恋愛をダメにした(間接的にだけど)私の恋を応援してくれるなんて。しかも、相手は自分の元カレだというのに!『二年前に身を引いたのは、あたしの意志。ナミちゃんのせいじゃないし、恨んでなんかいないから。できるならこれからも友達でいたい。……いいかな?』「えっ……、はい! もちろんですっ! あの、話してくれてありがとうございました」 失礼します、と言って、私から通話を終えた。彼女が原口さんと一緒にいた理由も、二人の関係も分かってスッキリしたはずなのに気は重い。 二年前に二人の間に起きたことと、私と潤の間に起きたことはほぼ同じ。原口さんは身を引こうとしていた琴音先生を引き留めることなく、仕事(というか私)を選んだ。 あんなに魅力的な女性(ひと)より私を選んだ理由は何だったんだろう? ――私には作品も含めて、彼女に勝てそうな要素はないはずなのに――。「はぁーー……。とりあえず着替えよ」 ソファーに座り込んでいた私は、重い腰を上げた。グラスを流しで洗って片付けると、部屋に戻って仕事着のブラウスからゆったりめのTシャツに着替えた。それだけで息苦しさが少しだけマシになった。 食欲はあまりなかったけれど、冷蔵庫の中の作り置きのおかずで晩ゴハンを済ませ、仕事机に向かう。 原稿はライターズ・ハイの甲斐あって、もう百四十枚くらい書けている。本のページでいえば半分~四分の三くらいだろうか。 章分けでは〝恋愛〟のパートまで進んでいて、過去の恋愛については結末(おわり)まで書いてしまってもいいのだけれど。現在進行形の恋について書こうと思うと、どうしても二年前の出来事に触れないわけにいかない。 琴音先生への罪悪感がジャマをして、悩みながら書いては消し、消しては書きを繰り返すこと二時間……。筆はあまり進まず、やっと五枚くらい書けたところで筆が止まってしまった。
「あ~~~~! ダメだ! 書けない……」 私は呻きながら机に突っ伏した。 書くのに時間がかかるのはいつものことだけれど、執筆に行き詰ったことは今までに一度もない。私にとっては初めて経験するスランプだった。 こんなに書くのがつらいと感じた原稿は初めてかもしれない。これまでに発表した小説は、書くのが楽しくて仕方なかったから。 でも今は、心の中がグチャグチャで書くことがただの〝作業〟になってしまっていて、ただ機械(きかい)的に筆を進めているに過ぎない。 エッセイの内容は、書き手の心境とリンクしていると私は思う。だからきっと、小説のように〝無(む)〟の状態でもスラスラ文章が浮かぶなんてことはないんだろう。「疲れたー……。今日はもうやめよ」 明日もバイトの出勤日なので、もうお風呂に入って寝ることにした。 * * * * ――翌日。まだ心に蟠りを残したまま、私はバイトに出勤していた。 朝起きてから食べたものも、どうやって支度をしてお店に来たのかも覚えてない。そんな〝心ここにあらず〟な状態でもお弁当作りだけは忘れないのだから、習慣というものは恐ろしい。――それはさておき。「はぁ~~~~っ…………」 仕事中もひっきりなしに、盛大なため息が漏れる。今日は由佳ちゃんは休みで、一緒のシフトに入っているのは今西クンだ。それも私のブルーな気持ちの原因の一つである。 私は昨日、由佳ちゃんから彼の気持ちを聞かされたので、気まずさMAX(マックス)なのだ。「はぁ~~……」「どうしたんですか、先パイ?」「うん……、ちょっとね」 心配そうに訊いてくれた今西クンに、私はお茶を濁(にご)す。――今日は平日だけれど、彼は休(きゅう)講(こう)日だったので朝から出勤している。 由佳ちゃんが相手なら、今悩んでいることを全部打ち明けられるのに。今西クンは男の子だし三つも年下だし、しかも私に気があるらしいし。恋の悩みは話しづらい。……あ、仕事の悩みもだった。 今日はアニメ雑誌の発売日。今は夕方の四時過ぎで、私はもうじき退勤時間。学校帰りの男子中学生二人組が雑誌売り場で何やら隠れてゴソゴソやっている。どうやら、今日発売のあるアニメ誌の綴じ込み付録の、大人気のトレーディングカードのレアカードがお目当てらしい。 彼らが売り場でカッターナイフを使い、その綴じ込みを何冊分も開いて
「先パイ! だ……っ、大丈夫っすか!?」 今西クンが血相を変えている。 それもそのはず。ただの切り傷だし大(たい)したことないと侮(あなど)っていたら、傷は思った以上に深いらしく、ティッシュで押さえていてもなかなか出血は止まってくれない。「大丈夫だよ、これくらい」 それでも強がっていると、今西クンに叱られた。「大丈夫じゃないでしょ、それ! こいつらはオレに任せて、先パイは店長呼んできて下さい! あと、その傷、ちゃんと手当てしないと。先パイ、もう上がりでしょ? 帰りにちゃんと病院に行って下さいね」「う、うん。分かった」 私が素直に従ったのは、彼の剣幕(けんまく)に怯んだからじゃない。彼の怒った顔がどことなく原口さんに似ていて、まるで原口さんに叱られているような気持ちになったから。「……ありがと、ゴメンね。じゃあ、あとお願い」 私は休憩室へ行く途中で店長をつかまえ、万引き未遂があったことを報告。店長は私の左手の傷を見て事情を察してくれ、病院で診断書をもらってくるように私に言った。 私はとりあえず、止血と簡単な応急手当てをしてから帰ることにした。救急箱から消毒液と脱脂綿・絆創膏(ばんそうこう)を取り出し、傷口を水洗いしてから消毒。出血が止まったのを確認して、大きめサイズの絆創膏を貼り付ける。 まだ出血は止まっていないようで、薄っすら血は滲んでいるけれど、あとは病院でしっかり処置してもらうことにしてお店の通用口を出た。 総合病院の外科で「万引き未遂の犯人からカッターナイフを取り上げようとして切られた」と事情を説明して傷を処置してもらい、痛み止めの薬を出してもらい、診断書も書いてもらってからマンションに帰り着いた。診断書代の三千円はなかなかに痛い出費だったけれど、店長は必要経費として精算すると言ってくれた。「…………はぁ~、怖かった……」 自宅で一人になって初めて、私は自分のしたことが「怖い」と感じた。どうしてあんな無茶をしたのか、自分でも信じられない。 ああいう時は自分で何とかしようとせずに、店長か今西クンを呼べばよかったのに。大きな悩みを抱えているせいで冷静な判断ができなくなっていたのだ。 でも一人の作家として、本を愛するものとして、あの行為はどうしても許せなかったから自然と体が動いてしまった。その結果がこのケガだ。 最近は紙の書籍が売
「…………あたし、一体何のために書いてるんだろ……? もう分かんない……」 気がつくと、私は大粒の涙をこぼして泣いていた。書けない作家はもう、誰からも必要とされなくなるんじゃないか。原口さんからも……。 * * * * ――私は思いっきり泣いたところで、この問題の根本的な原因について考えを巡らせた。 一つ目は、二年前に原口さんと琴音先生との仲を引き裂いてしまったのは自分だと、勝手に罪悪感を抱いてしまっていること。 二つ目は、この原稿を「書かなきゃ」と強迫観念のように思いつめていること。 一つ目については、原口さんとキチンと話せば解決するのだろうか? なので、まずは二つ目の原因の解決策について考える。 とりあえず「書かなきゃ」と自分を追い込むのはしばらくやめて、自然と「書きたい」と思えるようになるまで別のことで気を紛らわせよう。 ――ということで、本を読んだり(原口さんがくれたエッセイ本だ)、スマホのアプリでゲームをしたり、TVを観たり。そうしているうちにお腹が空いてきたけれど、夕飯を食べる気にもなれず、またエッセイ本を読もうとしていると――。 ――♪ ♪ ♪ …… 机の上に放置していたスマホに電話が。発信者は……えっ、今西クン!?『もしもし、先パイ。オレです』 通話ボタンをタップすると、まるで〝オレオレ詐欺(さぎ)
「ゴメンね、今西クン。気持ちはありがたいけど、私が寄り掛かりたいのはキミじゃないの。……好きな人がいるから」『……そう、なんすか。分かりました! オレは全っ然ショック受けてないっすから! 大丈夫っすからね!』 彼が強がるのを聞いて、何だか余計に申し訳なくなってしまう。「ホントにゴメンなさい」『先パイ、もういいっすよ。これからも、バイト仲間としてよろしくお願いします。じゃあまた』 電話が切れた後、私は新たな罪悪感を抱え込んでしまった。でも、今西クンはきっと大丈夫だ。私より若いし、大学生は忙しいからいつまでもウジウジ悩んでなんかいられないだろう。そのうちきっと忘れるよね。 ――というわけで、私は読書を再開した。そして、じっくり読んでみて気づいた。書き手なら誰しもが経験するであろう〝産(う)みの苦しみ〟という代物(しろもの)に。 悩んでいるのは私だけじゃないんだと思うと、少しは書けそうな気がしてきた。「とりあえず、ちょっとだけ書いてみよ」 改めて原稿用紙に向き合い、シャーペンを握った。利(き)き手は右なので、左手の傷は書くことに何の
「そうだったんですか。――はい、どうぞ」 お盆から氷を浮かべた麦茶のグラスをローテーブルの上に置いていると、彼は大げさに包帯の巻かれた私の左手をじっと見ていた.「恐れ入ります。――その左手、大丈夫ですか?」 「あ、はい。ただの切り傷で、大したことないんです。利き手じゃないから、シャーペン持つのにも差し支(つか)えないですし」 今西クンの時と同じように、カラ元気を発揮して明るく答える。でも、これは却って逆効果だったらしい。「先生、それって本心じゃないでしょう? 僕にまで強がってどうするんですか」「…………はい。ホントはすごく怖かったし、今でもズキズキ痛みます。自分でも何て無茶したんだろうって後悔してます。……でも……っ」 どうしてだろう? ただ本音で話しているだけなのに、この人の前で涙が零れてくるのは。「私はただ、本を愛する者として、本を書く側の人間として、どうしても許せなくて……。だから……つい、体が勝手に動いちゃって……っ。ひとりになって初めて、『怖い』って思ったんです。私……っ、そんなに強い人間じゃないですから……っ」 しゃくり上げながら話す私に、原口さんは優しく「分かりますよ」と頷いてくれた。「店長さんからの伝言を預かってきました。先生は明日、診断書を提出してからしばらくバイトはお休みするように、と」「え……? いえ、そういうわけにはいきませんよ!」 彼の口から飛び出した店長からの伝言に、私の涙は引っ込んだ。こんなことでバイトを休むなんて公私混同だ。たとえ傷を負っていたとしても、お客様に私の事情は関係ないのだから。「そのケガでは仕事にも支障が出るし、何よりお客様にも心配をおかけしてしまうから、と。『接客業だということを忘れてもらっては困る』、だそうです」「…………そう、ですか。店長命令なら仕方ないですね。分かりました」 私は渋々頷いた。店長が原口さんに伝言を頼んだということは、私を通じて二人の間にはそれだけの信頼関係ができているということだ。私はその信頼関係を、自分から壊そうとしているのに……。「……ねえ、原口さん。私がもし、『今の原稿から降りたい』って言ったら幻滅(げんめつ)しちゃいますか?」「…………え?」 私にしては珍しいネガティブ発言に、原口さんは虚(きょ)を突かれたように目を瞠った。「理由は訊かないで下さい。私
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)
「――そうそう、第二号は西原先生が引き受けて下さいましたよ」「そうですか」 琴音先生とは一(ひと)悶着(もんちゃく)あったけど、これからもいいお友達だ。彼女にも新天地でいい仕事をしてほしいと思う。「じゃあ、第三号はまた私に任せてもらえませんか? テーマはもう決めてあるから」 次回作はウェディングプランナーをヒロインにした話。美加を取材した時から決めていたのだ。「いいでしょう。打ち合わせはまた後日改めて。――ただし、できればその服はやめてほしいですけど」「えっ、なんで!? 似合いませんか?」 私は不満を漏らした。これを選んでくれた由佳ちゃんには「可愛いよ」って言われたのに! 原口さんからは不評なの!? ところが、そうじゃなかった。「いえ、よくお似合いですよ。――ただ、他の男性がいる前でそういう刺激的な格好はしてほしくないな、と」「…………はあ。そうですか」 なんか意外。原口さん(この人)にもそんな、〝
「そうですかあ? じゃ、僕のこと下の名前で呼んでみて下さいよ」 ……出た、久々のドS原口。しかも上から目線で。「分かりました。――こ……、こ……晃太さん……」 男性を下の名前で呼ぶのなんて潤の時以来のことなので、すんなりとは呼べずにどもってしまう。恥ずかしくて顔も真っ赤だ。でも、彼はそんな私のことを「可愛い」と笑ってくれた。「まあ、それは焦(あせ)らずにボチボチ変えていきましょうか。――あ、着きました。先生、ここが〈パルフェ文庫〉の編集部です」「へえ……、ここが。小さな部署ですね」 そこは五,六人分のデスクと小さな応接スペースがあるだけの、小ぢんまりしたセクションだった。当然、一番奥のデスクが編集長になった彼の席なんだろう。 まだ片付いていない荷物もあるらしく、あちこちに段ボール箱が残っているけれど、ジャマになっているわけではない。「〈ガーネット〉の編集部も、最初はこのくらいの規模からスタートしたそうですよ」「へえ……、そうなんだ」 それが今や、あれだけの大所帯になるなんて。大したもんだ。「ここもいずれは……と思ってますけど、まだスタートを切ったばかりですからね。――どうぞ、座って下さい」「失礼します」 私が応接スペースのソファーに腰を下ろすと、原口さんは自分のデスクからプチプチマットに包(くる)まれた一冊の文庫本を取ってきて私に差し出した。「これ、先生が書かれた『シャープペンシルより愛をこめて。』の見本誌です。ご自宅に郵送しようと思ってたんですが、今日来て下さったんで先に一冊お渡ししておきますね。残りはご自宅にお送りします」「わあ……! ありがとうございます!」 私は受け取った文庫本を、後生大事に胸に抱き締めた。「私ね、毎回この瞬間が一番『あー、作家になってよかったなあ』って実感できるの。今回は初挑戦のジャンルだったから余計に」 今回の原稿では〝産みの苦しみ〟を経験した分、こうして無事に本になってくれて、喜びも一入(ひとしお)だ。「この表紙、他のレーベルの編集者さん達からも評判いいですよ。『シンプルでいい。特に直筆の題字がいい』って」「そうなんだ? 直筆やっててよかった」 私はプチプチの外装(がいそう)を剥(は)がし、カバーの手触りを確かめるように表面をひと撫(な)でして感慨に耽った。そんな私を見つめる彼の目は、深い愛情
原口さんと両想いになってすぐ、私は潤に電話をした。「――潤、ゴメン。やっぱりアンタとはやり直せない。あたし、原口さんと付き合うことになったから」「……そっか、分かった。好きなヤツと両想いになれてよかったな、奈美。オレ、これでお前のことスッパリ諦めて、次の恋探すよ」 私にフラれた潤(アイツ)は、声だけだけれどスッキリしたような感じがした。 ――そして、私と原口さんが結ばれてから数週間が過ぎた八月上旬。 〈パルフェ文庫〉の創刊第一号・『シャープペンシルより愛をこめて。』の発売が三日後に迫る中、私のスマホに彼からのメッセージが受信した。『編集部が完成したので見にきませんか?』 さらに、公式サイトに書影(しょえい)もアップした、とのこと。私はそれが一目で気に入った。 私の文字がそのまま使用され、あとは原稿用紙のマス目とシャーペンの写真・ペンネームがデザインされているだけでとてもシンプルだけど、それが却って斬新(ざんしん)だ。 * * * * ――その翌日、バイトの休みを利用してできたてホヤホヤの編集部を訪れた。午前から来てもよかったけど、忙しいと迷惑がかかるかな……と思い、午後にした。 洛陽社のビルにはもう何度も来ているけれど、ここが彼氏の職場となると別の意味で緊張する。彼の働いている姿が見られると思うと……。 日傘の柄(え)を手首に引っかけ、オフショルダーの服でむき出しの肩に提げたバッグを担(かつ)ぎ直し、私は八階でエレベーターを降りた。この階は文芸部門のフロアーで、いくつかのレーベルの編集セクションと小会議室が数室あり、中でも〈ガーネット〉の編集部はこのフロアーの実に三分の二を占(し)めている。「――あ、巻田先生! お待ちしてました!」 小会議室が並ぶ廊下で、彼氏(!)になったばかりの原口さんが待っていてくれた。「原口さん! お疲れさまです。ご厚意に甘えて来ちゃいました」「〈パルフェ〉の編集部は一番奥です。案内しますね」 彼に先導(せんどう)され、私は〈ガーネット〉を含む他のレーベルの編集部をぐんぐん横切っていく。「――ところで、私達付き合い始めてもうじき一ヶ月になるんですけど。お互いの呼び方何とかしませんか?」 私はこの場の空気を読んで、小声で彼に提案した。この一ヶ月ほどで、私達の関係に何か変化があったのかといえば特にそん
私は目を閉じた。自分の心臓の音が、映画の効果音のようにバクバク聴(き)こえてくる。彼の吐息を間近に感じたかと思うと、唇が重なった。それも一瞬じゃなく、数秒間続いた。長いけれど優しいキス。 唇が離れると、彼は私を抱き締めてこう言った。「先生、今日はここまでにします。これ以上はちょっと……歯止(はど)めが効かなくなりそうなんで」 私はそれでも構わなかったけれど、その台詞が誠実な彼らしいので素直に頷いた。「じゃ、僕はそろそろ失礼します。――あ、そうだ。一つ、先生にお願いが」「お願い? 何ですか?」 私は首を傾げる。彼の事務的(ビジネスライク)な口調からして、「やっぱりさっきの続き」とかいう空気じゃなさそう。「カバーの題字に、先生の字をそのまま使わせて頂けないかなと。……構いませんか?」「えっ? ――はい、いいですよ」 作家の手書き文字を読者に見てもらえる機会なんてあまりないし、エッセイの内容からしてもそれはすごくいいことだと思う。「本当ですか!? ありがとうございます! ――じゃ、僕はこれで。また連絡します」「はい。……原口さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」 原口さんは玄関先でもう一度私にキスをして、ペコリと頭を下げて帰っていった。 ――私はソファーに座り込むと、唇をそっと指でなぞった。そこには柔(やわ)らかな感触と、どちらのか分からないカフェオレの香りが残っている。グラスを見たら、彼の分も空になっていた。 ……私、キスだけで腰砕(こしくだ)けになってる。恋をしてこんなになったのは初めてだ。 でも、原口さんに私の想いが伝わってよかった。恋心だけじゃなく、エッセイに込めた想いも。だから、彼に私の字をそのまま題字に使いたいって言われたのはすごく嬉しかった。 『シャープペンシルより愛をこめて。』、――それがあのエッセイのタイトル。 彼に伝わったように、このエッセイを読んでくれる全ての人達にも、私の想いが伝わればいいなと思う。
「――私ね、前にも話しましたけど、潤とのことがあってから、『もう恋愛は懲(こ)りごり』って思ってたんです。もう恋愛で傷付いたり疲れたりしたくないって。……でも私はやっぱり恋愛小説家だから、性(しょう)懲(こ)りもなくまた恋をしちゃいました」 考えていた台詞はどこかに行ってしまったけれど。私のこの想いだけ伝わればいい。「原口さん。……私、あなたが好きです。多分、二年前に担当になってくれた時からずっと」 よし、言えた! ――さて、彼の反応はどうだろうか?「…………えっ!? ぼ、僕ですか!?」 ……がくぅ。私は脱力した。これってわざとですか? ボケですか?「そうに決まってるでしょ!? 今ここに、他に誰かいますか?」「そう……ですよね。いやあ、なんか信じられなくて」 コメカミを押さえながらツッコむと、彼は夢心地のように頬をボリボリ。でも次の瞬間、彼から聞けたのは思いがけない(こともないか。実はそうだったらと私も密かに望んでいた)言葉だった。「実は僕から告白しようと思ってたので、まさか先生の方から告白されるなんて思ってなくて」「え……?」 待って待って! これって夢?「僕も、巻田先生が好きです。二年前からずっと」「……ホントに?」「はい」 こんなシチュエーション、小説にはよく書いてるけど、いざ自分の身に起こると現実味が薄い。「……あの、あなたが二年前に琴音先生より私を選んだのはどうして? 彼女の方がずっと魅力的なのに」「それは、僕が心惹かれた相手が先生だったからです。責任感が強くて一生懸命で、でも僕のボケには的確にツッコんで下さって。僕にとってはすごく可愛くて魅力的な女性です」 〝ボケ〟とか〝ツッコミ〟とか、いかにも関西人の彼らしい。――つまり、私達の相性は最強ってことかな。SとMで、当たり前のように惹かれ合っていたんだ……。「――実はね、私ちょっと前まであなたのこと苦手だったんです。あなたが酔い潰れた姿を見るまでは、あなたのこと口うるさいカタブツだと思ってたから」 あの夜、〝素〟の彼を見て分かった。彼は精一杯、バカにされないように突っ張っていただけなんだと。「じゃあ、あの夜に僕が本当は何を考えてたか分かりますか? ――もしこのリビングが明るかったとしたら」「え……」 私は瞬く。と同時に理解した。男性である彼が、「理性を保てなく
――そして、待つこと十数分。 ピンポーン、ピンポーン ……♪ ……来た! 私はインターフォンのモニター画面に飛びつく。「はい!」『原口です。原稿を頂きに来ました』「はっ……、ハイっ! ロック開けてあるのでどうぞっ!」 思わず語尾が上ずってしまい、インターフォン越しに彼がプッと吹き出したのが分かった。……恥ずかしい! 緊張してるのがバレバレ! もう二年以上の付き合いなのに(仕事上だけれど)、「今更?」って思われていたらどうしよう? そしてそのショックで、昨日まで練(ね)りに練った告白プランが全部飛んでしまった。「――先生、おジャマします」「はい、……どうぞ」 玄関で原口さんを出迎えた私は顔が真っ赤だったはずだけど、彼は「今日、暑いですよね」と言っただけでいつもの定位置に腰を下ろした。――彼なりに空気を読んでくれた?「あの、先生――」「あ……、原稿ですよね? ここにちゃんと用意してあります」 何か言いかける彼の機先(きせん)を制し、まずは原稿の封筒を彼に手渡す。「あ、ありがとうございます。――あの、ここで読ませて頂いてもいいですか?」「はい。じゃあ私、冷たいものでも淹れてきますね」 私はキッチンに立つと、二人分のアイスカフェオレのグラスを持ってリビングに戻った。 彼は普段と変わりなく、原稿を一枚一枚めくっている。でも今回はじっくり時間をかけて読み込んでいる気がする。「――コレ、どうぞ」 グラスを彼の前に置いても、「どうも」と会釈してくれただけで、視線はすぐ読みかけの原稿に戻された。私は何だか落ち着かず、彼の隣りでアイスカフェオレを飲みながら成り行きを見守ることに。 ――原口さんが二百八十枚全部を読み終わったのは、夕方五時半ごろだった。「どう……でした? 誤字とかのチェックはもう自分でしてあるんですけど」 私は彼に、原稿の感想を訊ねてみる。毎回この瞬間はドキドキするけれど、今回の緊張感は普段とはケタ違いだ。「……いや、これスゴいですよ。恋愛遍歴なんかもう赤裸々(せきらら)すぎちゃって、僕が読むのなんかおこがましいっていうか何ていうか」「いいんです。あなたに読んでほしかったから」 私の過去の男性遍歴は、あまり人に自慢できるようなものじゃないけれど。それでも好きな人には知っていてほしいから。
「――で? 告白の時はもうすぐなの?」 笑いがおさまったらしい由佳ちゃんが、私の顔を覗き込む。「うん」 締め切りは来月半ばだけれど、今の執筆ペースでいけばそれより早く書き上げられるはず。そしたらその日が、いよいよ告白決行のX(エックス)デーだ! 美加も由佳ちゃんも、そして琴音先生も気づいている。彼が私を好きだってことに。そして多分、私の気持ちを彼も知ってる。告白にはエネルギーが必要だけど、今回はもしかしたら〝省エネ〟で済むかもしれない。「そっか。きっとうまくいくって、あたし信じてるよ! ――さて、早く食べて仕事に戻ろ!」「うん!」 作家の仕事と同じくらい、私はこの書店での仕事も大好きだ。このお店で大好きな仲間と働けていることに感謝しながら、私はお弁当の残りをかき込んだ。 * * * * ――それから二週間ほど経った。 週四~五日は昼間はバイト、夜は原稿執筆に精を出し、休日には書けたところまでをチェックするという日々を送り、季節は梅雨からすっかり夏になっていた。今年は梅雨明けが早かったらしい(注・この作品はフィクションです)。 今日は店長のご厚意(こうい)で、有給にしてもらえた。昨日、「今の原稿、明日には書き上げられそうなんです」って私が言ったら、「じゃあ明日は有休あげるから、執筆頑張るんだよ」と言ってくれたのだ。